回復期病院の日常

病室は4人部屋でした。南側(窓側)にベッドが2台、北側(廊下側)にベッドが2台あり、それぞれ目隠しカーテンで区切られています。
最初昼間でも薄暗い廊下側のベッドを充てがわれましたが、窓側にいた方が退院されたので「気分が滅入りそうです。そっちに移れませんか?」
とプライマリーナースのCさんにダメ元で聞いてみたところ、あっさり移動できました。
ベッドと床頭台と荷物を移動するだけなので引っ越し自体は簡単です。
よく病院内で”床頭台”と言う表記を見ました。床に頭を乗せる台?イスラム教とか何かの宗教の礼拝に使う台かな?
病院もポリティカルコレクトネスで大変だなぁとアホなことを思っていましたが(確かに外国ルーツの方は病院にそれなりにいらっしゃいました)、
何のことはない、床頭台とはテレビと引き出しと冷蔵庫が一体式になった家具のことでした。字面からは全く想像すらできません。病院用語は不思議な言葉が多いですね。
また余談ですがここの病院は急性期の病院とは違い・・・いや(勿論皆さん美人ですが)ベテランの看護師さんたちが多く、また男性看護師さんも多かったです。
プライマリーナースのCさん(女性)も僕の悩みを傾聴してくれたりすぐ動いてくれたり色々助かりました。
最初男性看護師なんてどうだろうか。と思っていましたが皆さん優秀で優しく献身的で男性看護師も良いものです。
優しくされると変な話皆イケメンに見えます。また男性看護師ならばお風呂で恥ずかしい思いをすることもありません。
話が脱線しすぎました。戻します。移動したのは良いですが季節は夏、明るいですが空調が効いているとはいえ日中はカーテンをしていても大変暑く困りました・・・。
自分から申し出たので自業自得です、仕方ありません。水を飲んで涼を取ります。病室メンバーは僕より年上のDさん、年下のEさん、年上?のFさんです。
同じ病室の方で話ができる(通じる)方はこの紳士のDさんだけでした。
雑談の他にも「STでニュースのことを聞かれるだろう、新聞見るかい?」と新聞をくれたり、「随分と歩行が力強く早くなったじゃないか」と励ましてくれたり助かりました。会話が成立します。
ですが、他のEさん、Fさんはこちらから挨拶しても全く返事をしてくれません。大変失礼ですが、僕は挨拶をしない人は人として認めません。
しかもこの人達イビキが非常にうるさくまるで雷か地鳴りのようで、消灯後もテレビを見てチカチカと病室内全体を点滅させたり、お菓子をバリバリ音を派手にたてて食べたり、病室内なのに携帯で長電話したりうるさいんです。
僕は無用なトラブルに巻き込まれたくなかったのでこちらから注意したり看護師さんに通報したりしませんでした。そうだ、刺したり自傷したりを防ぐためでしょうか、カミソリや爪切りは没収されていました。
他の病室では同じようなトラブルで注意した人が、注意した側にも関わらず理不尽にも別の病室に移されていたようです。ほら言わんこっちゃない。なので消灯後は耳栓をして睡眠導入剤を飲んで早く寝ていました。
僕も見舞いに来てくれた子どもたちが病棟の廊下を走り回ったりベッドの上に乗って飛び跳ねて騒いだりしていたので人のことは言えません。
早く良くなってこの環境から脱出せねば、という思いが一層強くなりました。ちなみに退院してから外来リハビリで病院に行っていたときEさんに会ったので、
一応挨拶しましたが最後まで返事はありませんでした。僕のことを覚えていなかったのでしょう。そういうことにしておきます。
また、せっかく長いこと入院するのだから勉強できるだろうと思い、妻に遠い遠い単身赴任先の社宅まで行ってもらい(その時冷蔵庫の中身も処分してもらいました)、社宅に置いてあった重い重い社労士のテキストや問題集を持ってきてもらいましたが、
リハビリの時間が長く細切れの時間割だったのとPT、OT、ST室と病室の往復で結構忙しく、机もベッドのサイドテーブルとか床頭台の引き出し式の簡単なものしかなく左手が不自由でテキストを開くにも苦労したのでテキストや問題集はあまりできませんでした。
TOEICの勉強をしていた若い人は食堂でやっていたようですが、私の場合テキストも問題集も分量が多く不自由な体では食堂まで持っていくのが大変で、後述しますが”煽り歩行”も怖く、食堂では勉強しませんでした。
僕の勉強スタイルはひたすら手を動かして書きまくるタイプなのです(退院後も勉強には苦労しています。早く新しいスタイルを身に着けたいところです)。
仕方ないのでこっそりPCを持ち込み講義映像の動画ファイルを見ていたり、PCで日記をつけたりしていました。この記事も当時の日記を再構成して書いています。
ベッドで寝ながら勉強などできるはずもないし、主治医から「昼間はなるべく起きて寝ないようにしてくださいね」と言われていたので(僕以外の他の方は日中でも皆さんイビキをかいて寝ていました。細切れの訓練時間なのによく熟睡できるものです)、
車椅子や車椅子が取り上げられた後は椅子に座って勉強していましたが、ずっと座っていると腰が痛くなるのでPTの先生に「良いクッションはないでしょうか?」と聞いてみたら”ロホ”と言うクッションを貸してくれました。
このクッションは脊髄を損傷された方が主に使うクッションで、クッションの中が細かい空気の部屋に分かれており負荷を分散してくれるもののようです。
ロホを使い出したら腰痛は嘘のように良くなりました。復職したら使ってみようと値段を見てみたら目玉が飛び出ましたが・・・。
ちなみにこの病院はPC持ち込み不可なのです。「盗難の恐れがある」からだそうです。当然インターネット環境などあるはずもありません。
患者さんはTOEICの勉強をしていた学生のような若い方もいましたが、お年寄り(失礼)が多く、テレビのあるデイルームで輪になって歌っていたりしていました。
僕もこの輪の中に混じっちゃう日が来るのだろうか?と不安になります。他の方でも自主トレでしょうか、まるで走るようなものすごい勢で廊下を歩き回っている方や、
鬼のような必死の形相で車椅子を暴走させている方がおりヨタヨタ杖をついて歩いている僕は後ろから煽り歩行や煽り運転を受けますので、リハビリ室に行くとき、トイレ、食事以外は病棟内移動フリーの許可が出てもあまり病棟内を出歩かないようにしていました。
なので廊下を歩き回るような歩行の自主トレはあまりやっていません。闇雲に歩き回っても無意味だと思っていました。むしろ自主トレは手のストレッチや机拭き運動、いわゆるワイピングを主にやっていました。何故か不思議なことに手のほうの自主トレは僕以外あまりやっている人はいませんでしたが・・・。
トイレは流石に回復期病院、左麻痺の人用の右側に手すりがあるトイレと右麻痺の人用に左側に手すりのあるトイレがありました。
最初は左麻痺用のトイレしか使えず他の人が入っている時困りましたが、そのうちどちらのトイレでも使えるようになり、普通の手すりのないトイレも使えるようになりました。
服薬は高血圧の薬と中性脂肪が高かったので高脂血症の薬と筋弛緩薬です。昔薬局でお年寄りの方がまるでマーブルチョコのように大量に薬を出されているのを見て「うわー」と思いましたが、今では僕がそうなってしまいました。
最初は食事の時に看護師さんが都度渡してくれますが、そのうち薬はベッド脇で袋にいっぱい入ったものを渡されて、食事のたびに飲む分を食堂まで持って行くようになり、食堂で看護師さんに薬を確認されて服薬の様子を見守られます。
うっかり者の僕は薬を食堂まで持っていくのを何度か忘れて食堂からベッド脇まで取りに戻ったことがあります。他の人はずっと退院するまで食堂で看護師さんから都度渡されていましたが・・・。。
ミス防止のため食堂に薬を置いてくれないか、ベッドで渡される意味がわからない、退院しても寝室に薬を置き食事するリビングまで持って行かなければならないのか?
改善してほしいと何度も言いましたが最後までこんな感じでした。いじめでしょうか?なにかの訓練だったのでしょうか?よくわかりません。
入浴と言うかシャワーは週3日でした。お風呂の好きな私はシャワーだけというのは勘弁してほしいと思いましたが、残念ながらこの病院に浴槽はありません。
最初は全介助でシモだけ自分で洗っていましたが、そのうち自分で洗体できるようになりました。普通だったら両手でタオルを背中に回して背中を洗うのですが、
動かない左手を使ってタオルで背中を洗うのにはコツが要ります。OTの先生にタオルの片方を結んで縫って輪を作ってもらって、
輪に左手を通して片方を左手で固定するような格好でフリーのタオルの片方を使って右手を駆使し洗うのです。文字で書くと意味不明ですが・・・。
入浴でどれだけ介助がいるかどうか、ということも看護師さんに見られていて、その都度主治医に報告され、回復具合チェックの材料に使用されていたようです。
脱衣所で装具を脱いで裸足で浴室を歩行できなかった(その当時は)ので、浴室で装具を脱いで手すりを使ってシャワーチェアに移動し腰掛け、
シャワーを浴びるようにしていました。これがめんどくさかったです。温泉に行くことなんて到底無理じゃないか、と悲しくなりました。
とりとめもない話でしたが回復期病院はこんな感じです。中途半端に自由で中途半端にルールで縛られています。
早く良くなって出たい、とばかり思っていました。